歴史
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梅干し · 写真: SEKIUCHI / CC BY-SA 3.0 (Wikimedia Commons)

梅干し · 写真: SEKIUCHI / CC BY-SA 3.0 (Wikimedia Commons)

日本箱根

小田原の梅干し:箱根越えの旅人の弁当を守った梅

江戸時代の旅人にとって箱根の山は東海道最大の難所で、その入り口・小田原では梅干しが旅の必需品でした。戦国武将と梅の話、梅と塩だけで漬ける伝統の製法、100年フードに認定された曽我の梅干しまでまとめました。

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東海道最大の難所・箱根の山

江戸と京都を結んだ東海道で、箱根の山はいちばんの難所とされました。小田原から箱根を越えて三島まで続く山道は「箱根八里」と呼ばれ、峠の上には通行を厳しく取り調べる箱根関所もありました。 小田原はこの山の東の入り口にある城下町であり宿場町でした。山越えの前の晩に泊まり、越えたあとに休む場所だったため、旅人のための食べ物や品物が発達しました。文化庁も「曽我の梅干し」を紹介するなかで、小田原が箱根越えの旅人のための宿場町だったことに触れています。今は電車であっという間に通り過ぎる道ですが、当時の名残は食べ物の中に残っています。

北条早雲と梅の木の話

小田原の梅の話は戦国時代にさかのぼります。小田原を本拠に関東一円を治めた北条氏の祖・北条早雲が、梅の実を兵糧として使うために城下に梅の木を植えさせたのが始まりだという話が伝わっています。梅干しをしその葉で包む「しそ巻き梅干し」も、こうした戦場での工夫から生まれたという説があります。 ただ、この話を紹介する資料によって時代を「室町時代」としたり「戦国時代」としたりと表現が少しずつ異なり、史料で確かめられた事実というより地域に伝わる由来話に近いものです。それでも、小田原が古くから梅と深い縁を結んできた土地であることは確かです。

旅人の弁当を守った小さな梅

箱根の山を越える旅人にとって、梅干しは実用的な必需品でした。紹介資料によると、梅干しは旅人の弁当が傷むのを防ぎ、山道で疲れた体の疲労回復にも重宝されて、小田原の名産品になったといいます。おにぎりの真ん中や弁当のご飯の上に梅干しを一つのせる日本の習慣も、こうした暮らしの知恵とつながっています。 冷蔵庫のない時代、しょっぱくて酸っぱい梅干しは長く置いても傷まない貴重な保存食でした。一日がかりで歩く峠道では、口に含むとつばが湧く酸味が渇きをいやしてくれたことでしょう。小田原の梅干しは、こうして旅とともに名を広めました。

梅と塩だけで:白漬けと土用干し

小田原の曽我地区で作られる「曽我の梅干し」は、梅と塩だけで漬ける「白漬け」という伝統的な製法で作られると紹介されています。塩漬けした梅を真夏の土用のころに数日間天日に干す「土用干し」を経て仕上げます。干し始めはしわが少ないものの、日がたつにつれて水分が抜け、おなじみのしわしわの梅干しになります。 しそで赤く染めない白漬けは色が淡く、梅本来の味と塩気がはっきりしているのが特徴です。はちみつや昆布で味をつけたまろやかな梅干しに慣れていると、最初はかなりしょっぱく酸っぱく感じるかもしれません。ご飯と一緒に少しずつ食べたり、お茶漬けにのせたりすると、その味わいをよく楽しめます。

曽我梅林と100年フード

梅干しの原料となる梅は、小田原の東、曽我地区の「曽我梅林」で多くとれます。観光資料によると、曽我梅林は「関東三大梅林」の一つに数えられ、約3万5000本の梅が植えられているそうです。早春の梅の花が咲くころには花見の名所となり、夏にはその実が梅干しに生まれ変わります。 文化庁は、地域で受け継がれてきた食を認定する「100年フード」に「曽我の梅干し」を選んでいます。文化庁の一覧では2022年の認定と表示されていますが、別の年度を記すメディアもあり、正確な年は資料によって異なります。小田原駅周辺の商店街やおみやげ店で梅干しを選べるので、箱根旅行の始まりか終わりに一瓶いかがでしょう。帰国時の持ち込みルールは事前に確認してください。

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