歴史
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横浜スタイルの牛鍋 · 写真: Danglewis / CC BY-SA 3.0 (Wikimedia Commons)

横浜スタイルの牛鍋 · 写真: Danglewis / CC BY-SA 3.0 (Wikimedia Commons)

日本横浜

横浜の牛鍋:「牛鍋食わねば開化不進奴」と言われた文明開化の味

肉食を避けてきた日本で、牛肉を初めて庶民の味にしたのが開港期の横浜でした。1862年の最初の牛鍋屋の話から、すき焼きとの違い、今の横浜での味わい方までまとめました。

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開港した港と、牛肉を求める外国人

日本では長い間、牛を農耕に使う動物と考え、牛肉はあまり食べられていませんでした。変化が始まったのが、1859年に開港した横浜です。港のそばの外国人居留地に西洋人が暮らし始めると、牛肉の需要が大きく増えました。 輸入牛だけでは足りず、近畿や中国地方の牛が神戸経由で横浜へ運ばれ、1864年には海岸通に屠牛場を開くことが認められたといいます。こうして外国人向けの牛肉が港町に入ってくると、それを日本人好みに料理しようとする人たちが現れました。そうして生まれたのが牛鍋です。

1862年、店を半分に仕切った最初の牛鍋屋

農林水産省の郷土料理資料によると、1862年、横浜のある居酒屋の主人が居留地の外国人が食べていた牛肉料理にヒントを得て、最初の牛鍋屋を開きました。 当時は牛肉を嫌う人が多く、主人の妻も猛反対したそうです。そこで店を仕切り、半分を居酒屋、半分を牛鍋屋として営業しましたが、食べ慣れない牛肉を日本人好みに味付けしたことで人気を集め、やがて牛鍋の専門店になったと伝えられています。同じ年に生糸商が料理屋で牛鍋を出していたという記録もあり、「最初」については資料によって少しずつ異なります。その後、周囲にも牛鍋屋が次々と開店しました。

「牛鍋食わねば開化不進奴」

明治に入ると、牛肉は「文明開化」の象徴になりました。1868年には東京・芝にも外国人向けの屠牛場ができて牛鍋屋が東京に広がり、1870年には福沢諭吉が牛肉や牛乳をとるよう勧める『肉食之説』を書きました。1872年には明治天皇が牛肉を試食したことが新聞で報じられ、肉食の広がりを後押ししたといわれます。 この熱気をよく伝えるのが、1871年に仮名垣魯文が書いた滑稽本『安愚楽鍋』です。牛鍋屋に集まるさまざまな客の会話を描いた作品で、「牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」という一節まであります。牛鍋をつつくことが、新しい時代に乗った証だったのです。

すき焼きとどう違う?

牛鍋は一見すき焼きに似ています。農林水産省の資料はその違いを、すき焼きは肉を焼いてから煮るのに対し、牛鍋は最初から具材をたれで煮る、と説明しています。 初期の牛鍋は肉の臭みを消すため味噌で煮るのが中心で、明治7年頃には醤油味が主流になったとされます。今も店によって肉を薄切りにしたり角切りにしたり、たれも醤油か味噌かとそれぞれ個性があります。明治初期の横浜で主流だったといわれる「ぶつ切り牛肉の味噌鍋」に近いスタイルを守り続ける店もあります。 食べ方はすき焼きと同じで、煮えた肉やねぎ、豆腐、春菊を溶き卵につけていただきます。

今の横浜で牛鍋を味わう

横浜には明治に創業した牛鍋の老舗が今も何軒も営業しています。多くは中区の関内や伊勢佐木町周辺にあり、開港の街歩きとあわせて立ち寄るのにぴったりです。炭火の七輪に浅い鉄鍋をかけ、味噌とねぎをのせて煮る昔ながらのスタイルを守る店もあります。 今の牛鍋は高級料理のイメージがあり、お祝いの席や人が集まる日に食べることが多い料理です。お値段もそれなりなので、予算を事前に確認し、夜は予約しておくと安心です。 横浜の人にとって牛鍋は「横浜で生まれ全国に広がった料理」という誇りでもあります。市内の小学校では毎年1月、牛鍋をアレンジした「すき焼き風煮」が給食に出るそうです。

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