歴史
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小樽の食堂の焼きニシン · 写真: bryan... / CC BY-SA 2.0 (Wikimedia Commons)

小樽の食堂の焼きニシン · 写真: bryan... / CC BY-SA 2.0 (Wikimedia Commons)

日本小樽

ニシンが築いた街・小樽:鰊御殿、北のウォール街、そして今の食卓のニシン

運河と石造倉庫が並ぶ小樽の風景は、実はニシンのおかげで生まれました。かつて北海道の海を白く染めたというニシンがどのように小樽を豊かにしたのか、なぜ急に姿を消したのか、そして今の小樽でニシンを味わう方法をまとめました。

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海を白く染めた魚

ニシンは春になると産卵のため浅い海に押し寄せます。メスが海藻に卵を産み付け、オスが放精すると海が乳白色に濁り、この現象を「群来(くき)」と呼びます。江戸時代中期から北海道の西海岸各地でニシン漁が盛んになり、今の小樽一帯にも好漁場がありました。 明治に入ると定置網の一種「建網」が開発され、漁獲量が大きく伸びます。小樽を含む後志地方の最盛期は明治30年代で、当時は北海道全体のニシンの2〜3割をこの地域が占めていたといいます。1897年には北海道のニシン漁獲量が約97万5千トンでピークに達しました。

食べるより肥料に:ニシンが日本の畑を育てた

意外にも、最盛期のニシンの多くは食卓ではなく畑へ向かいました。とれたニシンを煮て油を搾り、残りかすを干した「鰊粕」にしたのですが、これが窒素の豊富な高級肥料でした。鰊粕は北前船に積まれて本州各地へ運ばれ、菜種や藍、綿花などの商品作物の栽培に使われました。 この肥料が農村に貨幣経済を浸透させたと評されるほど、その影響は大きなものでした。一方で、ニシンを煮るには大量の薪が必要で、産地周辺の森林が大きく荒れたという負の面もありました。小樽はこうしてニシンとその加工品、北海道各地の物資が行き交う港として急成長していきます。

鰊御殿:120人のヤン衆が暮らした家

ニシンで財を成した網元は「鰊御殿」と呼ばれる大きな家を建てました。小樽北部の祝津にある小樽市鰊御殿は、1897年に積丹の網元が7年をかけて泊村に建てたものを、1958年に現在地へ移築したものです。現存する鰊御殿の中で最大規模とされ、北海道有形文化財に指定されています。 この建物は網元の家族と「ヤン衆」と呼ばれる出稼ぎの漁夫がともに暮らした番屋でした。最盛期には120人ものヤン衆がここで寝泊まりしたと伝えられています(資料によっては「100人以上」とも)。館内には当時の漁具や生活道具が展示され、ニシン漁の規模を実感できます。

「北のウォール街」とニシンの退場

ニシンと港の交易でお金が集まると、小樽には銀行の支店が立ち並び、北海道最大の金融街となって「北のウォール街」と呼ばれました。1920年には人口が札幌を上回り、当時の北海道で2番目に大きな都市になり、1923年には小樽運河の第1期工事が完成しています。今観光客が歩く運河や石造倉庫、旧銀行の建物はこの時代の遺産です。 しかしニシンは永遠ではありませんでした。1953年頃から漁獲量が急減し、1955年には約5万トンまで落ち込みます。原因には海流の変化、海水温の上昇、乱獲、森林破壊など諸説ありますが、まだはっきりしていません。戦後のニシンの不漁は、小樽の卸売業が衰える原因の一つとなりました。

今の小樽でニシンを味わうには

今も小樽ではさまざまな形でニシンを味わえます。いちばん手軽なのは丸ごと焼いたニシンにご飯と汁物が付く焼き魚定食で、海鮮食堂のメニューでよく見かけます。ニシンを干した「身欠きニシン」は冷凍技術のない時代に山間部まで運ばれた大切な食材で、これを甘辛く煮てそばにのせた「にしんそば」は明治時代の京都で北海道産のニシンを使って生まれたとされています。 ニシンの卵を塩漬けにした「数の子」、身欠きニシンと米麹で漬けた「にしん漬け」も北海道の味です。春には祝津で焼きニシンや焼きホタテを味わう「おたる祝津にしん・おタテ祭り」が開かれることもあります。鰊御殿を見学したあとにニシンを一尾味わえば、小樽の風景が違って見えるはずです。

#小樽#ニシン#鰊御殿#小樽運河#北海道の歴史
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